代々木の森 診療所 代々木の森 診療所

「代々木の森」ものがたり

「代々木の森」ものがたり


広瀬徹也(代々木の森診療所・顧問)

代々木の森診療所は来春(令和5年3月)創立40周年を迎えます。創設者は現理事長の羽藤邦利先生と大学時代からの盟友・故三枝秀人先生(元理事長・院長)で、私は設立の相談に加わりました。私自身の記憶は定かでなかったのですが、診療所名を「代々木の森」とする案を出したのは私であるとのちに教えられ、今ではそれを誇りに思っています。と申しますのも診療所から遠望できる緑深い明治神宮の森(NHKテレビの昼のニュースの前に映される緑の森)は以下に述べますように、世界に誇る、ユニークな大都会の森であることに加えて、昨今あちこちで耳にする「○○の森(杜)」というクリニック名の先鞭をつけたようにも思えるからです。

昔から○○の森(杜)と言われたのは「鎮守の森」でしょうか。それは地域の守り神を祀るお社を囲むこんもりした木立を指していますが、それもクリニック名の流行の一因かもしれません。明治神宮の杜(代々木の森)や上野の森はその規模が膨大になったものと言えましょう。因みに上野の森は彰義隊が官軍と戦った上野戦争(明治元年、1868年5月)で荒廃するまでは、徳川幕府の菩提寺であった、壮大な寛永寺の杜だったのです。

名前だけでなく、昭和58年(1983年)頃は当診療所のように、複数の精神科医と臨床心理士もいる精神科診療所は東京では皆無といえる時代でした。その後高度成長期の影響でうつ病等の増加にも呼応して、同様のクリニックが急増したという経緯があります。創設者の先見の明により、代々木の森診療所は時代の先頭を切ったことになります。因みに「代々木」という名の由来は代々、一本の高い樅のが立っているだけの荒地だったからともいわれています。かつて練兵場に使われたのもそのためかも知れません。

さて、代々木駅西口を過ぎて10分ほど線路沿いに下ると、明治神宮の北参道入口に着きます。玉砂利の参道の両側は鬱蒼とした昼なお暗い深い森で、突然深山に入り込んだかと思うほどです(写真)。それは発案者が“人工の原生林”を作ろうと意図したのですから、当然といえます。

明治神宮は1912年に崩御された明治天皇と、後を追うように亡くなられた昭憲皇太后を祀るために、代々木の地での建立が決まりました。ここは明治7年宮内省の御料地となり、明治天皇がやや病弱の皇太后の保養にと、今でも人気の高い御苑の花菖蒲田や南池(睡蓮でも有名)などを作らせた、ご縁の深い地でもあったからです。1915年から育林が始められ、北は樺太から南は台湾まで、全国津々浦々から10万本の樹木が寄進され、11万人の青年が勤労奉仕(今でいうボランティア)して、1920年に完成したといわれています(2020年11月に鎮座百年大祭施行)。

杜を担当した当時の東京帝国大学林学科教授・本多静六らは、時の内務大臣(のちの首相)・大隈重信の「伊勢や日光の杉林のように」という方針に抗して50年、100年をかけて人手なしに完成する(天然更新)、永久に荘厳、神聖な(人工)原生林を目指しました。れは杉が育ちにくいやせた土地という理由など、森林の生態を知り尽くした本多教授らの深い学識によるものです。

現在では大きな椎、樫、楠などの常緑広葉樹を中心に約40万本の森となり、3000種あまりの生き物が生息するといわれます。森の地表は分厚い湿った腐葉土で覆われており、戦時中の空襲で、投下された焼夷弾が炸裂せずにそのまま潜ったため、本殿は焼け落ちても、森に逃げた多くの人々は助かったという、嬉しい貢献もしています。助かった人々はきっと神様のおかげと感謝したことでしょう。私も疎開先の田舎で空襲に遭い、畑に逃げて同様の危機一髪の経験をしたことがあります。

なお、当初は乗り気でなかった本多教授が代々木の森を手がけたのは、昨年の大河ドラマにもなった郷土(久喜市と深谷市)の先輩名士・渋沢栄一の強い勧めによるといわれています。そしてそこには以下のような歴史のドラマが絡んでおり、人の運命と縁の不思議を感じずにはおれません。

教授は本多家に養子に入ったのですが(旧姓折原、妻の詮子は日本で4番目の女医)、養父の本多晋は渋沢栄一が仕官した一橋慶喜の家臣であった本多家を継いで、慶喜に従って朝廷警護の任に当たり、のちには彰義隊の頭取にもなったのです。しかし、落馬事故で上野戦争には参戦できずに生き長らえ、一方の渋沢栄一もパリ万博参加等の外遊で、上野戦争とは無縁でした。晋はその後、上野戦争の同志を救えなかった苦悩から隠遁していましたが、渋沢栄一の推薦により明治政府の大蔵省などに勤めています。本多教授も養父・晋のことを想い、渋沢栄一の説得に応じたのかもしれません。

なお、本多教授は我が国初の西洋式庭園を取り入れた日比谷公園をはじめ、偕楽園など全国各地の名立たる公園を作ったことでも有名で、“公園の父”とも呼ばれています。その日比谷公園内のレストラン松本楼の脇にある大銀杏ですが、元は現在の日比谷交差点近くにあって、都市計画で切り倒されるところでした。それに反対した本多教授が自身の首を懸けて、その移植を東京市に懇請して実現したことから、“首かけイチョウ”の異名で有名です。25日間もかけて大木を移動した執念は、彼の並々ならぬ樹木愛の象徴といえましょう。

以上のような歴史的背景と特性を持つ代々木の森は、世界の他の大都市では見られない唯一かつ、非常にユニークなものであることはもっと知られてよいはずです。私は世界遺産になる価値があるとさえ思っています。

初詣で日本一の本殿だけではなく、通院の前後に一度は足を延ばして、訪ねてみることをお勧めします。北参道は原宿駅側の南参道に比べ人影も少なく、天気が良ければ、最高の森林浴と散歩になるでしょう。

(写真は筆者撮影)


2022年02月28日(月) 更新

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